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浦和地方裁判所 昭和59年(ワ)192号 判決 1985年9月30日

原告

宮本佳子

右訴訟代理人

児玉勇二

佐和洋亮

被告

糸川公美

糸川哲也

右両名訴訟代理人

平沼高明

関沢潤

堀井敬一

野邊寛太郎

同訴訟復代理人

西内岳

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告

「一 被告らは、原告に対し、各自金一三四〇万円及びこれに対する昭和五一年七月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二 訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決及び第一項につき仮執行宣言

二  被告ら

主文同旨の判決

第二  当事者の主張

原告・請求原因

一  当事者の関係

原告は、昭和一一年の生まれで、昭和五一年六月一〇日から後記分院に通院して、被告哲也により、右下第三臼歯(以下「親不知」という。)の診察及び治療を受けていた者、被告公美は、肩書住所に本院、埼玉県北葛飾郡吉川町吉川二〇一三番地に分院を設けて糸川歯科医院を経営している歯科医師であり、被告哲也は、被告公美と共に右歯科医院において診療に従事し、当時主として右分院を担当していた歯科医師である。

二  本件事故の発生

原告は、昭和五一年七月二一日(以下「当日」という。)の午後四時三〇分、右分院に来院し、被告哲也から、親不知の抜歯手術を受けるため、麻酔薬の投与(以下「本件麻酔」という。)を受けたところ、原告は、一本目の注射の時は平常であつたが、二本目の注射の直後、気分が悪くなり、右手から痺れ感を覚え、それが両手両足まで拡がり、やがて、両手両足が痙攣を起こして呼吸困難となり、意識不明になつた。被告哲也は、原告が呼吸に支障をきたしたので、酸素を吸入させ、他の患者を全員帰して診療を中止し、原告を二時間位も奥の部屋へ寝かせるなどしてかかりつきりになり、意識不明が治つた後も手足の痙攣がおさまらないので、被告哲也は原告を前記注射後四時間経た午後八時すぎ、谷外科医院に転医させ、原告は同日から同月二四日まで同医院入院し、同年一一月九日まで通院治療した。

原告は、右半身知覚鈍麻、右上下肢筋力低下の障害(以下「本件障害」という。)を有し、五級の身体障害者手帳を持つに至つている。

三  被告哲也の過失

1  歯科医師には、麻酔薬投与をする場合、患者の身体の状態を把握して、安全をはかる注意義務があるから、被告哲也が、十分な問診をせずに本件麻酔をしたことには過失がある。

2  被告哲也は、原告が麻酔薬投与を差し控えるべき身体にあることを知つており、原告が局所麻酔中毒症(以下「麻酔中毒」という。)となるのを避けるため、同被告には、麻酔薬投与を差し控える注意義務が存在したのに、これを怠り、本件麻酔を行つた過失がある。

即ち、原告は、当日に、胃腸の具合が悪く下痢をしており、また親不知の痛みのため睡眠不足で、しかも、三九度の発熱のため、体調が全く悪かつたのであるが、原告が被告哲也に対し、当日来院前に、電話を二度かけ、解熱剤の服用の許可を得、また、睡眠不足と発熱を理由に当日の抜歯手術の是非を問い合わせたところ、被告哲也は、大丈夫だから来院するよう指示し、当日の診察の初めにも、原告に会つて、その体調の悪さを現認し、原告の身体が衰弱していたことを知つていた。

患者の身体が衰弱しているときは、歯科医師は、麻酔薬投与という危険を伴う治療は、緊急手術でもない限り、差し控えるべきである。

四  因果関係

1  麻酔中毒の原因と症状

(一) 麻酔中毒の中毒反応の原因

局所麻酔薬投与による急性中毒の原因としては、過量投与、高濃度の局所麻酔薬注入、血管の豊富な部位への注入、炎症のある局所・発熱した患者への注入、注射の急激な注入、肝機能障害・全身衰弱・解毒機能低下の場合の注入があげられる。

そして、歯科用局所麻酔の特色としては、口腔が感覚の鋭敏な部分であること、精神的緊張があり、強い疼痛刺激を与えると種々の症状ショックを引き起こすこと、口腔粘膜は血管に富んでおり、麻酔薬が容易に血管に吸収されてしまうこと、麻酔薬を浸透しなければならない歯牙の根端付近まで薬液が浸透しにくい骨質や組織となつているので、薬液はごく少量で根端部まで十分な麻酔効力が発揮できるよう濃度が高くそれだけまた毒性も強いことがあげられる。

(二) 急性中毒の症状

局所麻酔薬の血中濃度の上昇によつて、中枢神経系・呼吸器系・循環器系が影響を受け、中枢神経症状としては、興奮・不安・多弁・頭痛・悪心・めまい・耳鳴り・全身痙攣・筋麻痺・意識消失があげられ、呼吸状態としては、呼吸数が増加し、痙攣が起こると呼吸困難となり、末期では呼吸が停止する。循環状態としては、血圧上昇傾向・頻脈・脈拍数の増加・血圧低下・徐脈となり、末期では心停止する。

(三) 本件の場合

原告は、前記三の2記載のとおり、原告の身体は衰弱しており、キシロカインという少量でも毒性の強い麻酔薬が使用されており、また、本件麻酔が炎症を起こしている、血管の多い部分に対するものであつたことから、麻酔薬の血中濃度が急激に上昇し、原告は麻酔中毒となつた。原告は、麻酔中毒の症状たる不安・悪心・めまい・全身痙攣・筋麻痺・意識消失という中枢神経系の症状と呼吸困難という呼吸器系の症状を示した。

2  酸素欠乏の後遺症

麻酔薬投与による急性酸素欠乏はその程度と長さにより、痙攣、長期の昏睡、視野狭窄、失語症、第八神経の障碍、健忘症、麻痺、半麻痺等を起こす。

本件の場合、原告は、麻酔中毒による呼吸困難に陥つており、この際、酸素欠乏の状態が生じて、本件障害を起こしたものである。

3  原告の谷外科医院における前記各症状は、本件麻酔の前には存在せず、本件麻酔の後に起きているから、本件麻酔によるものであることは明らかであり、原告には麻酔中毒による中枢神経の障害と呼吸困難の際の酸素欠乏による中枢神経障害が、入院当初からの手足の麻痺、知覚鈍麻の症状として存在しており、本件障害が現在まで継続しているものである。昭和五一年一一月九日、原告が、谷外科医院への通院を一旦終えたのは、麻酔中毒が治癒したからではなく、原告は、翌五二年の梅雨期ころから再び具合が悪くなり、同年八月二日谷外科医院に通院し、同月三一日から最近まで、順天堂大学病院に通院し(この間、他の病院やハリ治療なども試みる。)ていたものである。

他に特別の原因は発生していない。

以上の理由で、原告の現在の症状は、本件麻酔によるものと認められる。

五  被告公美の責任

被告公美は前記糸川歯科医院の経営者として、被告哲也を使用する者であるから、損害賠償責任を負う。

六  損害額

1  慰謝料 五〇〇万円

(一) 入院・通院慰謝料 一五〇万円

(二) 精神的苦痛に対する慰謝料 三五〇万円

2  逸失利益 七二〇万円

3  弁護士費用 一二〇万円<以下、省略>

理由

(当事者の関係)

一被告公美が、肩書住所に本院、埼玉県北葛飾郡吉川町吉川二〇一三番地に分院を設けて糸川歯科医院を経営している歯科医師であり、被告哲也が、被告公美と共に右歯科医院において診療に従事している歯科医師であつて、原告は昭和五一年六月一〇日から右分院に通院し、被告哲也が当時主として右分院を担当していたこと、原告が、被告哲也から親不知の診察及び治療を受けていたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、原告が、昭和一一年の生まれであること、原告が、糸川歯科医院に初めて来院したのは昭和五〇年一月二一日で、同年六月一〇日に親不知を一度治療しており、同年八月二九日に一旦治療を終了して、昭和五一年六月一〇日から再び通院を始めて、上顎左第一大臼歯等の診察及び治療を行つていたものであり、再び通院を開始してから最初に親不知を診察及び治療したのは、昭和五一年七月一九日であることが認められ<る>。

二本件事故の発生

1  原告が、当日、前記分院に来院し、被告哲也から麻酔薬の投与を受けたこと、原告が、被告哲也に対し、本件麻酔直後両手の、続けて両手両足の痺れ感を訴え、被告哲也が原告に酸素を吸入させ、その後奥の部屋に寝かせて原告にかかりきりになつたこと、被告哲也が原告を谷外科医院に転送し、原告が同医院に同月二四日まで入院し、その後通院したことは当事者間に争いがなく、または被告らが明らかに争わない事実である。

2  前記1の事実、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

原告は、当日の診察の予約時刻である午後四時三〇分ころ、前記分院に来院し、おそくとも午後五時前に本件麻酔を受け、本件麻酔の直後、両手足に痺れ感を覚え、呼吸が正常でなくなつたので、被告哲也は、原告に対し、約二〇分間酸素を吸入させ、他の患者を全員帰して診療を中止し、原告を奥の部屋へ寝かせ、脈を計り、検温する等してかかりつきりになつたところ、原告は左腕に痙攣の一種である攣縮(Zuckung・筋肉がピクピクする状態で、脳皮質刺激症状)を起こし、脈は正常であつた。被告哲也は、原告の症状を精神的な原因によるものと考えたが、攣縮が、少し減少するも持続したので、被告哲也は原告を、知合いの医師から紹介された、被告らの医院から自動車で五分位のところにある谷外科医院に転院させ、原告は、谷から診察及び治療を受けてから、同医院に午後八時三〇分入院し、同月二四日まで入院治療し、同年一一月九日まで通院治療した。

原告は、本件障害を有し、五級の身体障害者手帳を持つに至つている。

3  原告は、意識不明となつた旨及び痙攣を起こした旨主張し、その旨(痙攣については、手足が七〜八センチ上下左右に震えた旨)の原告本人の供述もあるが、右供述は、証人谷の証言及び被告哲也の本人尋問の結果により、本件麻酔前の原告の身体状態及び本件麻酔後の原告の身体状態の経緯についての記載部分は、原告及び被告哲也から聞いたことを書いたものと認められる甲第四号証に、本件麻酔後原告には意識消失がなく、攣縮があり、転院してからの原告の痙攣の状態も攣縮であつた旨の記載があることから、原告本人の右供述部分は措信し得ず、他に原告主張の右事実は、2に認定した程度を超えてこれを認めるに足りる証拠はない。

また、原告は、被告哲也が谷外科医院に転院させたのは、午後八時すぎである旨主張し、その旨の原告本人の供述もあるが、証人谷は、入院時間から推測して「午後六時過ぎ」、被告哲也は、「午後七時頃」と供述していることから、原告本人の右供述部分は、にわかに措信できず、他に原告の転院が午後八時すぎであつたとは認めるに足りる証拠はない。

4  被告らは、原告が痙攣を起こしたことはない旨主張するが、被告哲也自身本人尋問において、原告が攣縮を起こした旨供述しており、攣縮が痙攣の一種であることは前記判示のとおりであるから、被告らの右主張はそのまま採用できない。

三被告哲也の過失その一

(問診をすべき注意義務の違反について)

1  原告が、本件麻酔以前に麻酔薬の投与を受けており、その際何らの異常がなかつたことは、<証拠>により明らかであり、原告、被告哲也の各本人尋問の結果によれば、当日来院時、原告が、顕著な身体的異常を示していないことが認められるから、麻酔中毒を回避するための問診としては、原告の当日の身体の状態について尋ねることで足りると解されるところ、後記四の1の(一)認定事実及び原告、被告哲也の各本人尋問の結果によれば、被告哲也は、原告に対し、本件麻酔前に、「どうですか」と原告に身体の調子を含めて尋ね、原告の「歯がすごく痛い」との返事に対し、前々日の一九日に処方した薬の服用の有無を尋ね、原告は、胃炎のようになつているため薬を飲んでいない旨答え、他に発熱の事実を告げたほか、それ以上の身体的異常を訴えなかつたこと、そこで被告哲也は、触診により高熱ではないことを確かめたことが認められ<る>。右状況からすれば、歯科医師たる被告哲也には、さらに問診して、原告の身体が麻酔薬投与を避けるべき状態であるかどうかの判断資料を得るべき義務はなかつた、と認められる。

四被告哲也の過失その二

(麻酔薬投与を差し控えるべき注意義務の違反について)

被告らは、注意義務発生の前提たる、原告が、当日胃腸の具合が悪く下痢をしていて、親不知の痛みのため睡眠不足になつており、原告の身体の調子が全く悪かつた事実を争い、また、原告は被告哲也に対し当日電話をかけておらず、原告は発熱しておらず、被告哲也は原告の身体が衰弱していたことを知らなかつた旨主張し、麻酔薬投与を差し控えるべき注意義務の存在について争つている。

1  そこで、まず事実について検討する。

(一)  <証拠>によれば、次の事実が認められ<る>。

原告は、当日、胃腸の具合が悪く下痢をしており、親不知の痛みのため睡眠不足で、体温が高いという身体の不調があつたが、原告は、被告哲也に対し、胃炎のようになつている、熱がある程度のことを告げたのみで、その他の症状を詳しく告げておらず、被告哲也は胃腸の不調のほか、原告の身体にさほどの異常があるとの認識をもたなかつた。

(二)  原告は、当日、三九度の発熱があつたこと及び被告哲也に対し、当日電話をかけており、その際、発熱の事実を告げ解熱剤服用の許可を得ている旨主張し、その主張に沿う原告本人の供述もある。しかし、

(1) 原告は、三九度発熱したため、当日の昼ころ、被告哲也に電話して、解熱剤服用の許可を得て、服用した旨及び午後三時ころ、再び被告哲也に電話して、熱が下らないことから糸川歯科医院への来院の見合わせを打診したところ、来るように言われた旨供述するが、被告哲也は、右二度の電話については記憶がない旨または否定する旨の供述をしていること。

(2) 前記甲第四号証及び証人谷の証言によれば、三九度の発熱及び解熱剤を服用した旨は、当日の医師谷の診察の機会においても、原告から谷に対し告げられておらず、谷の作成の診療録には体温が高かつた旨の記載があるにすぎないこと。

から、原告本人の供述部分のみをもつてしては、原告主張の右各事実(ことに高熱及びそのことの被告哲也への告知)があつたとの心証に達しえず、他に原告主張の右各事実を認めるに足りる証拠はない。

なお、原告が下痢をしており、親不知の痛みのため睡眠不足であつたことを原告が被告哲也に告げた事実については証拠がない。

2(一)  原告は、患者衰弱時の麻酔を差し控えるべき旨主張するが、およそ、炎症に起因すると認められる発熱などの症状については、消炎のための手術、ひいてはそのための麻酔の施行を相当とする場合も考えられるのであつて、発熱、睡眠不足など患者の身体的条件の良好でない場合に、歯科医師が治療の必要上麻酔を投与することを緊急手術のほか、一律に差し控えるべき旨の主張とすればもとより失当であつて、麻酔薬の投与の当否は、さらに患者の身体の状況やその症状の原因などから具体的に検討されるべき事柄であることはいうまでもないところである。

(二)(1)  前記1の(一)認定のとおり、被告哲也は、原告の身体的条件については胃炎のようになつていることと多少発熱しているかもしれないことを認識していたが、原告、被告哲也の各本人尋問の結果によれば、当日、親不知の周囲炎は前回の診察時(前々日の七月一九日)と同様の状態で、親不知の舌側には腫張がほとんど認められず、少し赤くなつているにすぎなかつたこと、しかし、被告哲也に対し、原告が親不知の痛みを強く訴え、それが前回の診察時と同様の痛さであり、胃腸の不調のため、痛み止めの薬を飲んでいない旨告げたことが認められ、右認定に反する被告哲也の供述部分は措信し得ない。

(2)  <証拠>によれば、キシロカインの最大許容量は、二〇〇ミリグラム程度で、二〇〇ミリグラムは二%キシロカイン一〇ccに相当するところ、本件麻酔は、二%キシロカイン一ccを浸潤麻酔の方法で注射し、続けて二%キシロカイン二ccを伝達麻酔の方法で注射したものであり、本件麻酔程度の薬量で、麻酔中毒になつた例は見当らず、原告は本件麻酔以前に抜歯手術のため二%キシロカインの麻酔薬投与を受けたが、その際異常のなかつたことが認められる。

(3)  なお、胃炎をおこしている者に対し麻酔薬を投与することにより、麻酔中毒が生じると認めるに足りる証拠はない。

(三)  以上を総合すると、被告哲也が原告に対し、その親不知の痛みを除くため、外科的処置を採ることとし、本件麻酔をしたことは不当とはいえず、被告哲也には麻酔薬投与を差し控える義務はなかつたものといえ、この点における原告の主張は理由がない。

(四)  これに対し、<証拠中>には、麻酔薬投与をすべきではなかつた旨の記載がある。しかし、右は、その判断の基礎に証明されていない事実である「三九度の発熱」を含むものであり、また、麻酔薬投与の必要性と禁忌の関係が不明なものであるから、そのままを採用することはできないものである。

五そうすると、原告が主張する被告哲也の過失は、これを認め難いから、その余の事実について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

以上により、原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官高山 晨 裁判官松井賢徳 裁判官原 道子)

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